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一木に天地あり

      荀子「性悪説」/孟子「性善説」      


▽ 荀子「性悪説」…人間本来の性質は本来、悪であるという説。「性善説」を見る
[本文]  書き下し文へ/現代語訳へ/解説・現代語訳
 人 之 性 悪、其 善 者 偽 也。

今、人 之 性、生 而 有 好 利 焉。
順 是、故 争 奪 生、而 辞 譲 亡 焉。
生 而 有 疾 悪 焉。
順 是、故 残 賊 生、而 忠 信 亡 焉。
生 而 有 耳 目 之 欲、有 好 声 色 焉。
順 是、故 淫 乱 生、而 礼 儀 文 理 亡 焉。
然 則 従 人 之 性、順 人 之 情、必 出 於 争 奪、合 於 犯 文 乱 理、而 帰 於 暴。
故 必 将 有 師 法 之・礼 儀 之 道、然 後 出 於 辞 譲、合 於 文 理、而 帰 於 治。
用 此 観 之、然 則 人 之 性 悪 明 矣。

其 善 者 偽 也。


[書き下し文]
 人の性は悪なり、其の善なる者は偽なり。
今、人の性、生まれながらにして利を好む有り。
是に順ふ、故に争奪生じて、辞譲亡ぶ。
生まれながらにして疾悪有り。
是に順ふ、故に残賊生じて、忠信亡ぶ。
生まれながらにして耳目の欲有り、声色を好む有り。
是に順ふ、故に淫乱生じて、礼儀文理亡ぶ。
然らば則ち人の性に従ひ、人の情に順へば、必ず争奪出で、犯文乱理に合して、暴に帰す。
故に必ず、将に師法の化・礼義の道き有りて、然る後に辞譲に出で、文理に合して、治に帰せんとす。
此を用て之を観るに、然らば則ち人の性の悪なること明らかなり。
其の善なる者は偽なり。


[現代語訳]
 人の本性は悪であり、人間の善とは後天的に努力で作られた人為(な性質)である。

さて今、人間の本性には、生まれつき利益を好む性質がある。
この本性に従うために、他人との争いや奪い合いがおこって、互いの譲り合いがなくなってしまう。
生まれつき他人をねたみ憎む心がある。
この本性に従う、だから、他人を傷つけ損なう行動がおこって、他人への真心と信義がなくなってしまうのである。
また生まれつき耳や目を楽しませようとする欲望があり、美しい音楽や美女を好む性質がある。そして、この本性のままに行動するから、節度を失った行為がおこって、正しい規範と秩序がなくなるのである。
従って、人間の本性に従い性情のままに行動すれば、必ず奪い合いが始まって、次に社会秩序や規範が乱れ、ついには天下の大混乱に行き着くことになるのである。
だから、必ず、人間は師の教育・感化と礼の道による指導があった後、はじめて互いに譲り合い、次には社会規範に従うようになり、その結果、平和な社会に至るのである。
以上のことから考えると、人間の本性が悪であることは明白である。

人間の善とは後天的努力で作り上げた人為である。


[解説及び現代語訳]
 人の本性は悪であり、人間の善とは後天的に努力で作られた人為(な性質)である。
〈解説〉
 いきなり読者に抵抗感を覚えさせる導入である。しかし、これも漢文独特の表現技法であって、最初は筆者の主張を努めて隠すという特徴がある。特に思想の書物は、言いたいことを明確にしないため、読む時に非常に頭を使う。そこで最後に主張を述べることで、読者に納得させるのである。
 「善」が人の努力で作られた人為的な性質とはどういうことなのか、人の本性が悪とは本当なのか。以下、その論証が次々と挙げられていく。

 さて今、人間の本性には、生まれつき利益を好む性質がある。
この本性に従うために、他人との争いや奪い合いがおこって、互いの譲り合いがなくなってしまう。
生まれつき他人をねたみ憎む心がある。
この本性に従う、だから、他人を傷つけ損なう行動がおこって、他人への真心と信義がなくなってしまうのである。
また生まれつき耳や目を楽しませようとする欲望があり、美しい音楽や美女を好む性質がある。そして、この本性のままに行動するから、節度を失った行為がおこって、正しい規範と秩序がなくなるのである。
従って、人間の本性に従い性情のままに行動すれば、必ず奪い合いが始まって、次に社会秩序や規範が乱れ、ついには天下の大混乱に行き着くことになるのである。
 特にこの部分は現代語訳だけで充分伝わると思う。紀元前の中国の思想家の炯眼に驚嘆するだけである。

だから、必ず、人間は師の教育・感化と礼の道による指導があった後、はじめて互いに譲り合い、次には社会規範に従うようになり、その結果、平和な社会に至るのである。
 この考えによると、「学校」などは性悪説に基づいて設置されたものと考えるほうがよいのではないかと思う。よく校舎に「あいさつをしよう」だとか「思いやりの心を持とう」といった格言のようなものが貼ってあるが、あれを考えれば、確かに人の本性は悪だ、と気づかずにはいられないだろう。

以上のことから考えると、人間の本性が悪であることは明白である。
人間の善とは後天的努力で作り上げた人為である。

 最後は文頭の言葉を繰り返し、読者の心理に訴えかけている。要するに、人の本性を悪だと認識することで、「善なる心を養う必要がある」ということを述べようとしている。
荀子のこの考えは、後に韓非子という人物の「法家思想」へと発展し、現代社会のような、なにもかも法律で人を制御していく社会の仕組みをよしとする見方の大元である。
 なお、韓非子の法家思想を取り入れて中国を初めて統一した覇者が、秦の始皇帝である。

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[本文]  書き下し文へ/現代語訳へ/解説・現代語訳
 孟 子 曰、「人 皆 有 不 忍 人 之 心。
先 王 有 
  不 忍 人 之 心、斯 有 不 忍 人 之 政 矣。
以 不 忍 人 之 心、  行 不 忍 人 之 政、
治 天 下 可 運 之 掌 上。
所 以 謂 人 皆 有 不 忍 人 之 心 者、今、人 乍 見 孺 子 将 入 於 井、皆 有 じゅつ タ 惻 隠 之 心。
非 所 以 内 交 於 孺 子 之 父 母 也。
非 所 以 要 誉 於 郷 党・朋 友 也。
非 悪 其 声 而 然 也。
由 是 観 之、
無 惻 隠 之 心、非 人 也。
無 羞 悪 之 心、非 人 也。
無 辞 譲 之 心、非 人 也。
無 是 非 之 心、非 人 也。
惻 隠 之 心、仁 之 端 也。
羞 悪 之 心、義 之 端 也。
辞 譲 之 心、礼 之 端 也。
是 非 之 心、智 之 端 也。
人 之 有 是 四 端 也、猶 其 有 四 体 也。
有 是 四 端、而 自 謂 不 能 者、自 賊 者 也。
謂 其 君 不 能 者、賊 其 君 者 也。
凡 有 四 端 於 我 者、知 皆 拡 而 充 之 矣。
若 火 之 始 然、泉 之 始 達。
苟 能 充 之、足 以 保 四 海、苟 不 充 之、不 足 以 事 父 母。


[書き下し文]
 孟子曰く「人皆人に忍びざるの心有り。先王人に忍びざるの心有りて、斯に人に忍びざるの政有り。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行はば、天下を治むること、之を掌上に運らすべし。人皆人に忍びざるの心有りと謂ふ所以の者は、今、人乍ち孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆じゅつタ惻隠の心有り。交はりを孺子の父母に内るる所以に非ざるなり。誉れを郷党・朋友に要むる所以に非ざるなり。其の声を悪みて然するに非ざるなり。是に由りて之を観れば、
惻隠の心無きは人に非ざるなり。
羞悪の心無きは人に非ざるなり。
辞譲の心無きは人に非ざるなり。
是非の心無きは人に非ざるなり。
惻隠の心は仁の端なり。
羞悪の心は義の端なり。
辞譲の心は礼の端なり。
是非の心は智の端なり。
人の是の四端有るや。猶ほ其の四体有るがごときなり。是の四端有りて、自ら能はずと謂ふ者は、自ら賊ふ者なり。其の君能はずと謂ふ者は、其の君を賊ふ者なり。凡そ我に四端有る者は、皆拡めて之を充たすを知る。火の始めて然え、泉の始めて達するがごとし。苟くも能く之を充たさば、以て四海を保つに、苟くも之を充たさざれば、以て父母に事ふるに足らず。


[現代語訳]
 孟先生が言うには「人は誰でも皆、他人の不幸を黙って見過ごすことのできない心がある。昔の聖王には、この思いやりの心があったから、そこで(自然に)思いやりのある政治が行なわれた。このように思いやりの心で、思いやりの政治を行なえば、天下を治めることは物を手のひらの上で転がすように簡単なことである。
 人間は、皆思いやりの心があるというわけは(次のことで分かる)、今、ある人が、不意に幼児が井戸に落ちかかっているのを見たら、誰でもはっとしてかわいそうに思う心が起こる。それは、(幼児を助けて)幼児の父母と交際をしようとするためではない。村の人や友人たちから褒めてもらおうとする名誉心からではない。(子供を見殺しにしたという)悪い評判が立つのを嫌ってそうするのでもない。
以上のことから考えてみると、
憐れむ心のないものは人間ではない。
不善を恥じ憎む心のないものは人間ではない。
譲り合う心のないものは人間ではない。
正・不正を判断する心のないものは人間ではない。
人の不幸を憐れむ心は仁の芽生えである。
不善を恥じ憎む心は義の芽生えである。
へりくだって人に譲る心は礼の芽生えである。
正・不正を判断する心は智の芽生えである。
人間がこの四つの芽生えを持っているということは、ちょうど人間が両手両足の四体を備えていることと同じである。
この四つの芽生えを持っていながら、自分から仁・義・礼・智を行なうことができないという者は、自分で自分を傷つけ損なう者である。
自分の仕える君主は仁・義・礼・智を行なうことができないと考えるのは、自分の君主を傷つけ損なうことである。
だいたい四端が自分自身に備わっている者は、これを拡大し、充実(させて仁・義・礼・智を完全に)することが分かる。
(四端を拡充していくことは、)ちょうど火が一度燃え始めたり、泉の水が流れ始めたりする(のと同じように果てしなく広がっていく)ようなものである。
もし四端を拡充していくことができれば、広く天下を安んずることができ、もしこれを拡充しなければ、父母に孝行することさえも充分にできない。


[解説及び現代語訳]
  孟先生が言うには「人は誰でも皆、他人の不幸を黙って見過ごすことのできない心がある。昔の聖王には、この思いやりの心があったから、そこで(自然に)思いやりのある政治が行なわれた。このように思いやりの心で、思いやりの政治を行なえば、天下を治めることは物を手のひらの上で転がすように簡単なことである。
〈解説〉
 「不忍人之心」とは「他人の不幸を見過ごせない心」すなわち現代でいう「思いやりの心」である。この心さえあれば、人々の欲望・権謀術数が交錯する政治の世界ですら思うままである、という。

 人間は、皆思いやりの心があるというわけは(次のことで分かる)、今、ある人が、不意に幼児が井戸に落ちかかっているのを見たら、誰でもはっとしてかわいそうに思う心が起こる。それは、(幼児を助けて)幼児の父母と交際をしようとするためではない。村の人や友人たちから褒めてもらおうとする名誉心からではない。(子供を見殺しにしたという)悪い評判が立つのを嫌ってそうするのでもない。
 人を思いやる心があるという論証が、「子供が井戸に落ちそうになった時」というシチュエーションを想定して述べている。現代ならさしずめ、車の行き来の激しい道路に、三歳児が歩き出した様子を思い浮かべればよいかと思う。この状況で「危ない」と感じなかったら、それこそ人としてまともな感情を宿していないと言える。そして「危ない」と思う理由は、名誉や利害関係があってのことではない。瞬間的に感じることであって、だからこそ「人は生まれながらにして善の心を持つ」と孟子は訴えているのである。

以上のことから考えてみると、
憐れむ心のないものは人間ではない。
不善を恥じ憎む心のないものは人間ではない。
正・不正を判断する心のないものは人間ではない。
人の不幸を憐れむ心は仁の芽生えである。
不善を恥じ憎む心は義の芽生えである。
へりくだって人に譲る心は礼の芽生えである。
正・不正を判断する心は智の芽生えである。
人間がこの四つの芽生えを持っているということは、ちょうど人間が両手両足の四体を備えていることと同じである。
ここは漢文独特の対句表現になっていて、美すら感じる部分である。
「惻隠之心」とは「いつくしみ・情け・思いやり」のことで、孔子の言う「仁」の元である。
「羞悪之心」とは「人として行なうべき正しい道」のことで、孔子の言う「義」の元である。
「辞譲之心」とは「人が行動するうえで守るべき作法」のことで、孔子の言う「礼」の元である。
「是非之心」とは「正しい・正しくないを判断する頭のはたらき」のことで、孔子の言う「智」の元である。

これは、日本でもよく知られている「仁義礼智」の解説なのである。孟子は孔子の没後100年くらいして誕生した人で、そのころすでに孔子の言う「仁義」が分からなくなっていたので、孟子が改めてどういことかを当時の言葉で述べたもの。

人間がこの四つの芽生えを持っているということは、ちょうど人間が両手両足の四体を備えていることと同じである。
この四つの芽生えを持っていながら、自分から仁・義・礼・智を行なうことができないという者は、自分で自分を傷つけ損なう者である。
自分の仕える君主は仁・義・礼・智を行なうことができないと考えるのは、自分の君主を傷つけ損なうことである。
この「仁義礼智」はすべて、人が生まれながらに持っている心であり、それをきわめれば誰でも仁義の心を持てる、ということ。人はせっかくこういう心を持っているのに「仁義礼智」まできわめようとしないから、人としてまともに扱ってもらえなかったり、口に出しては批判されないが、つきあいは遠慮されたりするのである。だから仁義礼智を持てない君主は国を治められないのである。

だいたい四端が自分自身に備わっている者は、これを拡大し、充実(させて仁・義・礼・智を完全に)することが分かる。
(四端を拡充していくことは、)ちょうど火が一度燃え始めたり、泉の水が流れ始めたりする(のと同じように果てしなく広がっていく)ようなものである。
もし四端を拡充していくことができれば、広く天下を安んずることができ、もしこれを拡充しなければ、父母に孝行することさえも充分にできない。
 四端を持っていると自覚すれば、その心を成長させようと考えるのが当り前であるという。この四端は一度成長をさせると火が燃え広がるように、泉の水があふれるように、四方へ広がっていくもので、従って、成長させようとしない者は親にすら不孝なことをする人間になるが、もし広げさせることができればやがて世の中が穏やかに治まると述べている。

「性悪説」と「性善説」、全く意見が正反対の内容であるが、私は思うに、

荀子の「心」=欲望(外圧的な力が必要)
孟子の「心」=理性(自発的統制力)

のことだと考えれば、すべてつじつまが合う。人の心では欲望と理性とが何事につけてもいつもせめぎ合っており、うまくコントロールする心を養うことが、現代人にも求められているのではないかと考えます。


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